その頃、航は今まさに朱莉が検索していた「美ら海水族館」に来ていた。建物の外から身を隠す様に望遠レンズカメラで対象者の浮気現場をカメラに抑えていた。そして何枚か証拠画像を取ると、汗を拭った。「ふう~……本当に沖縄は暑いな……」先程自販機で購入したスポーツドリンクを飲むと木陰に移動し、機材チェックをしながら周囲をチラリと見た。水族館を訪れている客は全員がカップルかファミリー層である。航のように1人で来ている客は誰もいなかった。「全く……皆が羨ましいな。遊びに来ているのに俺は男の浮気現場の証拠写真を撮りに来ているなんて……」もっとも、安西家はこの仕事で生計を立てているので文句を言えないが、航はまだ22歳の青年。遊びたい盛りである。沖縄のビーチで泳ぎたいし、海岸線をドライブだってしてみたい。(一緒に朱莉と出掛ければもっと楽しいだろうな……)そこまで考えて航は我にかえる。「な、何でそこで朱莉の顔が浮かんでくるんだよ! 全く……あんな天然女……九条は何処が良かったんだ!?」航は自分自身に腹を立てながら、先程撮影した画像のチェックを始めた—―****—―23時 航はフラフラになりながら朱莉の住むマンションへと戻って来た。つい先ほどレンタカー会社によって車を返却し、そこから歩いて帰って来たので、もう身体は疲れ切っていた。「全く……那覇市から海洋博公園まであんなに遠いとは思わなかったぜ……高速に乗っても2時間以上かかるんだから……」朱莉から預かったカードキーを差し込み、ロック解除すると自動ドアが開く。航は中へ入るとコンシェルジュの男性と目が合った。その目は何となく航を値踏みするような視線に見えたが、知らんぷりをして航はエレベーターホールへと向かう。5Fのボタンを押し、欠伸を噛み殺しながらエレベーターに乗り込んだ。腕時計を確認すると時刻は23時半になろうとしている。(朱莉は多分もう寝てるだろうな。連絡位入れれば良かったか?)やがてエレベーターは5Fで止まり、航は朱莉の住む部屋のドアを開けて中に入ると驚いた。何と朱莉がキッチンのテーブルの椅子に座り、テーブルに頭を乗せて居眠りをしていたからだ。朱莉の前にはラップのかかった食事が置かれている。(ま、まさか、俺を今迄待っていたのか……?)「おい……。寝てるのか?」航は朱莉に近寄ると声をかけた。し
翌朝――「……君。航君……」誰かが呼ぶ声で航はゆっくり目を開けると、何とそこには朱莉が航を覗き込むように見下ろしていた。「な・な・なんだよ! お……驚かすなよ!」航はガバッと起き上がると朱莉に抗議した。「あ、ごめんね。勝手に部屋に入ったりして。ただ、今朝は何時に起こせばいいのか分からなかったから」「え?」航は慌てて部屋にかけてある時計を見ると驚いた。何と時刻は8時を過ぎている。「や……やべ! 寝過ごした!」そして飛び起きようとして朱莉を見た。「おい、いつまでここにいるんだよ……」「え? いつまでって?」「俺……着替えたいんだけど」「あ、ごめんね。気付かなかった。すぐ出るね」朱莉は立ち上がると、素早く部屋の外へ出て、ドアをパタンと閉めると呟いた。「朝ご飯……食べる時間無いかな?」そこで、朱莉は手早く支度を始めた—— 一方航はかなり焦っていた。「くそ! 寝過ごすとは!」航は急いで機材のチェックをし、本日の対象者の予定を書き記した手帳を確認する。「え~と確か今日は古宇利島へ愛人と行くって言ってたな……。全く婿養子のくせにいいご身分だ。こんなことしてられない!」慌てて着替えて、部屋を飛び出して朱莉に言う。「悪い! 朱莉。朝飯は……」航が言いかけた時、朱莉が水筒とランチバックを差し出してきた。「え?」航が戸惑った顔を見せると朱莉は笑顔になる。「食べる時間が無いでしょう? おにぎりと今朝のおかずを詰めたから時間がある時に食べて。一応保冷材はいれてあるけど暑いから早めに食べてね」「朱莉……」航は思わず胸に熱いものが込み上げてきて……ぐっと拳を握りしめると顔を上げた。「悪いな、朱莉。ありがと」「気にしないで。それじゃ気を付けて行って来てね」そして航は笑顔の朱莉に見送られてマンションを後にした―― 航が仕事に出かけた後、朱莉は自分の朝食を食べ、洗濯をしようとして気が付いた。「そうだ。今日航君が帰ってきたら洗濯物のこと言わないと。ひょっとして私に気を遣ってコインランドリーを使ってるかもしれないし」 洗濯物を回し、部屋の掃除をする為に片づけをしているとリビングのソファの椅子の下にチケットらしきものが落ちているのを発見した。「どこのチケットだろう……?」拾い上げてみると、それは朱莉が行きたいと思っていた『美ら海水族
朱莉は今、ベビー用品を取り扱っている専門店へとやって来ていた。「え、と……新生児用の肌着に紙おむつ、ベビー布団、ベビーベッド、おくるみ、抱っこ紐……」揃える品物があまりにも多すぎて、朱莉はクラクラしてきた。けれど……。「フフフ……。赤ちゃんか。すごく可愛いんだろうな……」だが、朱莉が育てるのは自分で産んだ子供ではない。明日香が産んだ子供なのだ。そして契約書通りに明日香の子供が3歳になったら、翔と明日香に子供を託し、朱莉は離婚をして、あの億ションを出ることになる。朱莉は溜息をつくと思った。(きっと3歳で私と別れれば、その子の記憶に私は残ることは無いんだろうな。だったら私との写真は撮ったら駄目だよね。お母さんに写真をもし見せるなら赤ちゃんだけの写真を撮って見せてあげよう……)つい数年先の未来を思い描き、暗い考えが頭をよぎる。朱莉は頭を振ると、買い物メモを見ながら、慎重に商品を選び始めた—―****その頃――「ふう~……疲れた……」航が機材を抱えながら朱莉のマンションへと帰って来た。「朱莉? 次の仕事まで時間が空いたから一度戻って来たぞ」しかし、部屋の中はしんと静まり返り、時折ネイビーがおもちゃで遊んでいる音が響くばかりである。「朱莉? いないのか?」機材を置くと航はリビングへ足を踏み入れた。「何だ。パソコンがつけっぱなしじゃないか……」朱莉のパソコンは電源が入りっぱなしで、沖縄の海の映像がスクリーンセーバーとして映し出されている。「全く……電源入れっぱなしで……」うっかり航はマウスに触れてしまい、画像が切り替わった。それは姫宮から届いた契約書の文面を表示した画像だった。その内容を目にした航の顔色が変わる。「な、何なんだ。この契約書は……うん? 待てよ。これは訂正前の契約書なのか? それにしても……」朱莉が翔と交わした契約婚の書類を航は悪いと思いつつ、ザッと目を走らせるように内容を読みこんだ。そして読めば読むほど、翔に対して激しい怒りが込み上げてきた。「い、一体何なんだ? この鳴海翔と言う男! 6年後には離婚? 明日香が産んだ子供は朱莉が産んだことにして手がかからなくなるまでは朱莉が1人で世話をするだって!? し、しかも恋愛禁止、必要以上に異性と親しくするなって……何考えてるんだよ! 本当に朱莉はこんな条件を飲んで契約婚
「え~と、次に必要なのは……あ、ベビーバスがいるんだ」朱莉は買い物メモを見ながら品物をチェックしている。航は大きなカートを押しながら朱莉の後を黙ってついて来ていた。(くっそ〜やっぱりついて来るんじゃなかった……!)今、航は激しく後悔していた。何故ならこのベビー用品売り場で航は完全に目立ちまくっていたからだ。航は22歳で髪を茶髪に染めた今どきの若者。しかも平日にも関わらずTシャツ姿にジーンズ、そしてスニーカーといういで立ちである。目立つのは当然だ。おまけに航は成人男性ながら、時々高校生にも間違われることがある程の童顔。その為につい、朱莉も航を子供扱いしてしまうのである。女性店員たちが何やらひそひそと航を見ながら囁き合っている。(あの店員達……完全に俺が赤ん坊の父親になると思ってるな?)イライラしながら横目で女性店員をジロリと睨み付けると、2人の女性店員は慌てたようにパッと航から視線を逸らす。「航君、御免ね。次は向こうの売り場に行ってくれる?」朱莉は振り返ると申し訳なさそうに航に声をかける。「ああ、いいぜ。次は何買うんだ?」朱莉の前でイラつく顔は出来ないと思い、航は無理矢理顔に笑顔を張りつかせると、朱莉の後を素直について行く。あらかた店内を見渡した朱莉は買い物リストをチェックしている。「え~と。ベビーバスに、ベビーカーに、チャイルドシート……ベビー枕に防水シーツに哺乳瓶と消毒ケースと消毒薬でしょう? 粉ミルクはアレルギーとか、賞味期限があるから、まだ買えないし……」朱莉はブツブツ言いながら買い物メモを見つめているが、その横顔はとても嬉しそうだった。「朱莉」航はそんな朱莉に声をかけた。「何?」「いや、随分楽しそうに買い物してるなって思って」航は突然照れ臭くなり、視線を逸らせる。「勿論、とっても楽しいよ。だって赤ちゃんのお迎え準備の買い物なんだもの。フフ……きっと小さくて可愛いんだろうな……」朱莉は頬を染めて嬉しそうにしている。そんな朱莉を見下ろしながら航は思った。(だけど朱莉。その子供はお前の子供じゃないんだぞ? 幾ら可愛がっても3年で子供と別れて子供はお前のことなんかすぐに忘れてしまうんだぞ? そんなんで…・お前は幸せなのかよ……っ!)子供と別れる時の朱莉の心境を思うと、航は胸が苦しくなった。「どうしたの航君。あ、もしか
帰りの車の中――「ねえ、航君」「うん、何だ?」「いいの? 運転して貰ってるけど」「ああ、気にするなよ。俺は運転好きだからな」「ふ~ん。それじゃドライブもするんだ?」「ああ、そうだな」「やっぱり男の人ってみんなドライブが好きなんだね」朱莉のポツリと言った一言が何故か航は気になった。「なあ、朱莉。その男の人の中には九条も含まれてるのか?」苛立ちを押さえているつもりだが、つい強い口調になってしまう。「九条さん? うん。多分好きかなあ……」「な、何!? 朱莉……お前、九条が好きなのか!?」思わず握るハンドルに力を込めながら航は横目で朱莉を見る。「え? だって今航君が聞いたんでしょ? 九条さんは運転は好きなのかって」朱莉は不思議そうに首を傾げる。「あ、ああ……なんだ……そっちか。そうか、九条の奴も運転が好きなのか」つい、敵意が籠った口調になってしまう。「航君……。やっぱり疲れてるんでしょう?」「何でそう思うんだよ」「だって……何だかイライラしているように見えるから。ごめんね、買い物付き合わせて」「だ、だから謝るなって! 第一俺から買い物に付き合おうかって声をかけたんだからさ」(全く……朱莉と一緒だと自分のペースが乱されるな)しかし、何故か朱莉の近くは居心地がいいと感じる航であった。**** 18時―― 買って来た荷物は物凄い量になった。それを見て航は呆れたように言った。「なあ、朱莉。こんなに大量に買い物して何処においておくつもりなんだよ。ベビーダンス迄あるじゃないか」「大丈夫だよ航君。このリビングにはね、約3畳の広さのウォークインクローゼットがあるんだから」言いながら朱莉がリビングの扉を開けると、そこから3畳もの広さを持つ収納部屋が現れた。「ははは……やっぱりすげーな……」乾いた笑いをする航。(朱莉の為にこんな立派なマンションを借りる九条といい、このマンションの家賃を躊躇うことなく簡単に支払える鳴海といい……自分とは住む世界が全く違うんだってことを改めて思い知らされるな……)自分が酷く小さな人間に感じてしまう。惨めな気持ちになり、思わず俯いた航を見て朱莉は声をかけた。「航君、どうしたの? 疲れたんでしょう? リビングのソファで休んだら? 19時になったら起こしてあげるから」「ああ、そうだな……そうさせて貰
「航君……?」航は無言のまま、朱莉を抱きしめている。眠気なんかとっくに覚めていた。(うわああああ! ヤバイヤバイヤバイ! な・な・何で俺……朱莉を抱きしめてしまったんだよ!)今、航は自分が非常にまずい立場に置かれている事に焦りを感じていた。あまりに焦り過ぎて、完全に動きが止まってしまった。しかし、朱莉は何を勘違いしたのか、口を開いた。「航君……。ひょっとしてまだ寝ぼけてるの?」朱莉が航に抱き締められたまま、耳元で言う。(そ、そうか……! 朱莉はまだ俺が寝ぼけてると思ったんだな!? だったらこのまま寝ぼけたフリをしてやれ……!)航はやけくそになって寝ぼけたフリを必死で演技した。「う~ん……もう食べられない……」我ながら下手くそな演技で、恥ずかしくなってくる。(何が、もう食べられないだよ!)もはや自分で自分に突っ込んでいる状態である。しかし、朱莉は上手く引っ掛かってくれた。「あ、やっぱりまだ寝てるんだ。航君、起きて!」「う……ん……あれ……? 朱莉か……?」航は朱莉から身体を離すとわざと目を擦り、たった今目が覚めたかのような演技を必死で続ける。「ああ、良かった。やっと目が覚めたんだね? 航君。もう19時過ぎてるよ?」「な、何だって!? まずい!」今度こそ航は演技抜きで驚き、慌ててソファから飛び起きた。「朱莉! 起こしてくれてありがとう!」航は慌てて機材と荷物を取りに行くと、すぐに玄関へ向かった。「朱莉、今夜はひょっとしたら帰れないかもしれないから俺のことは気にせず、戸締りをしっかりして寝るんだぞ?」「うん。大丈夫だよ、だって今までもずっとそうだったんだから。あ、そうだ」朱莉は再び航にマグボトルとランチバックを差し出す。「一応お弁当作ったの。手の空いた時にでも食べて?」「朱莉……ありがとな」航は朱莉からボトルとランチバックを預かった。(また俺なんかの為に……)航は感動し、不覚にも顔が赤くなりそうになり、慌てて朱莉から顔を背ける。「そ、それじゃ行って来る」「うん。行ってらっしゃい」こうして航は朱莉に見送られながら、玄関を後にした。「急がないと!」マンションを飛び出すと、航はレンタカー屋へ向かって走った。(全く……中年のオヤジなんだからホテルで大人しくしてりゃいいものを……!)思わず航は心の中で毒づいていた
お風呂に入り、特にすることも無くなってしまった朱莉は書きかけだった絵葉書を書くことにした。母に宛てた手紙はすぐに書き終えることが出来たのだが、問題は京極の方だ。姫宮と一緒にいるあんな写真を見せられてしまった為に朱莉は今後どういう態度で京極に接すればいいのか分からなくなっていた。京極は朱莉にとって謎だらけの人物だったのだ。メッセージを送ると京極に約束はしたものの、それだとすぐに京極から返信が来てしまう。それならまだ絵葉書を書いて出した方がいいだろうと朱莉は考え、今京極に手紙を書こうとしているのだが……。「京極さんが航君みたいに分かりやすい性格だったら良かったのに……」本当は正直な所、手紙を書くのも迷いがある。しかし、電話越しから聞こえて来た京極の朱莉を案ずるような声。東京で散々京極にお世話になったことを考えると、何も知らないフリをして京極に手紙を書くしか無かった。「取りあえず私のことはあまり書かないようにして、ネイビーのこととマロンの状況を尋ねる内容の文章にしようかな……」そして朱莉はペンを手に取った―― 色々考え抜いた挙句、朱莉は1時間近くかけてようやく葉書を書き終えた。一通り読み返して、文面がおかしく無いか、誤字脱字は無いかを確認する。「うん、大丈夫そう。明日葉書出さなくちゃ」朱莉は玄関のシューズケースの上に葉書を置くと自室へ入った。ベッドの中に潜り込むと、色々と今後のことを考えた。 京極は勘のいい人間だ。もし仮に朱莉が生まれたばかりの明日香の子供を抱いて、あの億ションに戻った時の京極の反応はどうだろう?恐らく絶対に朱莉が産んだ子供では無いという事がすぐにバレてしまう。もし、そうなったら今迄塗り固めて来た嘘が全てバレてしまう。京極には恩義があるが。彼とは距離を置いた方がいいだろう。「翔先輩と離婚をするまではあの億ションにいたくないな……。赤ちゃんと一緒に何処か別のマンションに住めればいいんだけど……」姫宮には何でも相談するようにと言われているが、姫宮と京極の関係が謎である以上、彼女の力を借りるわけにはいかない。(明日……翔先輩に……相談して……みよう……)そして、朱莉は眠りに就いた――****深夜1時。疲れた体を引きずりながら航は朱莉の住むマンションへと戻って来た。エレベーターに乗り込むと、5階行のボタンを押し、欠伸
翌朝―― 6時に起きた朱莉がキッチンへ行くと、テーブルの上に航からのメモが乗っていた。『おはよう朱莉。今朝は9時に出掛けるから、悪いけど8時まで寝かせてくれないか? よろしく』「航君何時に帰って来たのかな? でも8時なら余裕があるよね。あ、それなら!」朱莉は出掛ける準備を始めた—―8時――航が目を擦りながらキッチンにいる朱莉に声をかけてきた。「おはよう、朱莉」「おはよう、航君。ねえ、昨夜は一体何時に帰って来たの?」「う~ん……夜中の1時か? その後、シャワーを浴びて……寝たのは1時半頃だった気がするな」それを聞いた朱莉は心配そうに眉を潜めた。「ねえ……。身体の具合はどう? 疲れたり……してない?」「な、何言ってるんだ。大丈夫に決まってるだろう? 俺はまだ22だし、睡眠時間だって6時間以上取っているんだから」朱莉がそこまで自分のことを気に掛けてくれているのかと思うと、つい顔が緩みそうになり、慌てて視線を逸らせた。「そう? ならいいんだけど……。ねえ、朝ご飯、今日は家で食べれる?」「ああ。今朝は余裕があるから大丈夫だけど……」航がそこまで言いかけると、みるみる内に朱莉の顔が笑顔になる。「な、な、何でそんな嬉しそうな目で見るんだよ」思わず航の顔がカッと熱くなる。「だって……一緒に食事が出来るのが嬉しくて」朱莉はにこやかに答える。「朱莉……」(駄目だ、勘違いするな。朱莉が俺と食事をしたいのは俺に気がある訳じゃなくて、誰かと一緒に食事がしたいだけなんだから!)航は必死で自分の心に言い聞かせた。「あのね、実は今朝はご飯じゃないんだけど、いいかな?」席に着いた航に朱莉は尋ねた。「ああ、別に何でもいいぜ。俺は好き嫌いは無いから」「良かった〜。実はちょっぴりリッチな高級食パンを売っているお店が近所に出来て、今朝買って来たの」朱莉は買って来た食パンを航に見せた。「何? 朝からわざわざ買いに行って来たのか?」「うん、まだ私も一度も食べた事が無いんだけど……航君と一緒に食べたいなって思って買って来たの」「そ、そうだったのか?」(だから……勘違いさせるような事を俺に言うんじゃない!)航は朝っぱらからすっかり動揺していた。ただでさえ昨夜偶然目にした京極宛のポストカードで頭の中は一杯なのに、その上朱莉の勘違いさせるようなこの言
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう